スティーヴン・コーヴィーという著名な作家はある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄に乗っていました。すいている電車内は、静寂そのものでした。ところが、ある駅に到着すると、一人の中年の男性と、数人の子供が乗り込み、車内の雰囲気が一変しました。子供は大きな声で叫んだり、物を投げたり、走り回ったりしました。しかし、スティーヴン・コーヴィー氏の隣に座った父親は、目をつぶったまま、何も言いませんでした。コーヴィー氏を始め、電車に乗っている人々は皆、子供に対しても、その行儀の悪さを容認する父親に対しても、いらいらが募るばかりです。とうとう、堪り兼ねたコーヴィー氏は、父親に言いました。

 「お宅の子供たちはみんなに迷惑をかけていますよ。もう少し、おとなしくするように、叱ってもらえませんか。」

  すると、隣に座っていた父親は、重い口を開きました。

 「おっしゃるとおりです。何とかしなければならないと、私も思っていますが、どうしたら良いか分かりません。たった一時間前に、私の妻、あの子たちの母親が病院で死んでしまいました。私もどうしたら良いか分からないし、子供たちも同じでしょう。」

 一瞬にして、コーヴィー氏の父親に対する考え方が変わりました。そこで、父親を批判することをやめ、むしろ彼に同情し、彼を慰めようとしたということです。

 イエス・キリストは、マタイの福音書7章で、こう言われました。

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量 るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(1−3節)。

 私たちは、他人のあら捜しをして批判することが、何と多い者でしょうか。周囲の人間の一つ一つの行動や言葉が気になって、つい「正してあげなければならない」という高慢な思いに陥ってしまいます。しかし、相手の置かれている状況が少しでも分かれば、そのさばく気持ちが同情心に変わるのです。だからこそ、キリストは別 の箇所で、罪を犯したと思われる人と話し合って、すべての事実を確認するように、私たちに戒めておられます(マタイ18・15−17)。

 確かに、愛の心から、相手の状態に悲しみを覚えて、重荷を感じることは尊いことであり、また、必要なことだと言えましょう。「あらかさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」という聖書箇所もあります(箴言27・5)。しかし、その場合、私たちはよくよく注意しなければなりません。つまり、すべての事実を確認したうえで、真の愛に基づき、また祈りの心をもって批判する、ということです。切り捨てるのではなく、助け上げるために、壊すためでなく、建て上げるために語るのです。

 罪人の傾向として、私たちは自分のことは棚に上げて、都合の悪い人を責めやすい性質を持っています。自分には甘く、他人には厳しいのです。しかし、真理や状況の一方だけを見て、まるでそれがすべてであるかのように強調する極端は、余りにも幼すぎます。そのような量 り方をする人は、やはりそのように量られてしまうものです。


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