|
6.資格がない自分
人は本来、自分の罪を深く悟ると、自分が義とされることも、義と思う心さえも持つことができなくなると言われています。しかし、それを悟る瞬間には真実になれるし、初めて主の恵みの大きさが分かるようになるのです。取るに足りない存在であるにもかかわらず、私はこのように生きているし、赦され、そして救いの約束を得たのです。本当に感動するようになります。まるでメフィボシェテと同じです。メフィボシェテはある時、ダビデ王の招待を受けました。彼は足なえであり、サウル王の孫なのですが、ダビデから驚くほど、多くの恵みを受けます。
「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」(サムエル九・七)。
メフィボシェテは足なえで体が不自由な人でした。そして、ダビデにとっては、敵の孫です。ただ一人残されたサウルの孫でした。資格うんぬ
んと言われれば、何の価値もないのです。ですから、彼は「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」(同九・八)と、痛みいっているのです。この態度は本当に大切です。もし彼が「私はしかくがある」とか、「ここにいる私は本来、王の孫であるから」という考えがあれば困ることです。問題は自分の愚かさ、自分の罪悪によっては到底ダビデの前に立つことができない、(主の御前に立つことができない、そんな)身分であることをはっきり知ることが重要なのです。それを知る時に、恵みを悟るようになるのです。完全に無資格であり、救済不可能な存在であることを悟る瞬間があるからこそ、恵みが恵みになるのです。
そのことを最も深く知ったのは、パウロでした。彼は平凡にキリストを信じたのではなく、迫害者でした。ステパノを殺害し、キリスト者が非難して行ったダマスコにまで彼らを捕らえようと、公文書を持って追いかけて行った人でした。こんな極悪な人がキリストを信じるようになりました。よく考えてみれば、パウロは雷に打たれて死んでも、文句を言えない立場でしたが、救われて使徒になりました。それ故、すべての人の中で一番大きな恵みを受けたのです。誰も考えられない程の大きな恵みを受けたというのが使徒パウロの心です。
7.本当の謙遜
聖フランシスコにも、よく似た話があります。ある日のこと、聖フランシスコの弟子が夢を見ました。そこには、いと高い御座がありましたが、空席になっていたのです。それで、ここには誰が座るのか、と御使いに聞くと、世で一番謙遜なフランシスコが座る場所だと言いました。弟子でありましたが、自分の先生がとても偉くなるという話に嫉妬しました。彼は夢から目覚めると、自分の先生を試したくなりました。それで聞いてみました。「先生、あなたは自分をどんな人間だと思っていますか。」彼は、「私はこの世で一番悪い人間だと思っている」と答えました。弟子は、「先生、それは嘘です。それは偽善者です。すべての人があなたを聖者と呼んでいます。世の中には強盗も多く、罪人があふれているのに、あなたがこの世で一番悪いというのは、話になりません。偽りです!」と反発しました。その時、聖フランシスコは、「君、それは知らないで言うことだ。私が神から受けた恵みがどれ程多いか知っているのか。私に下さった恵みを他の人にも下さったならば、その人達は私よりももっと良い人になったはずだ」と言いました。この言葉に弟子は何も言えませんでした。本当に謙遜な人でした。
8.恵みに寄り頼む
神の恵みの大きさ、広さ、深さを知るには、罪に対する敏感な意識がまずあるべきなのです。私にまだ可能性があって、自分で正しくなれると思っている間は、神の恵みが分かりません。極端に言えば、正しくなろうとする努力さえも放棄すべきです。私たちに正しくなろうとする努力があれば、それも恵みです。事実、恵みとして正しくなろうとする努力が与えられることであって、自分自らは正しくなろうとする心さえも持つことができない存在であることを完全に是認すべきです。「私」が完全に倒れ、はって行き着く所まで行った時に、本当に謙遜な心でキリストを迎えるようになります。ただ、ここまで来るのは勇気のいることであり、また難しいのです。
9.自分の問題の自覚
イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と語られましたが(マルコ二・一七)、これは、正しい人と罪人が別
にいるという話ではありません。人間はすべて罪人ですが、「私は罪人だ」と告白する罪人と、「私は正しい」と言い張る罪人がいるだけなのです。言い換えれば、人が病気であることに気付くまでは医者を訪ねることがないように、罪人であることをはっきり知るまでは、キリストを信じないということです。また、自分の病気を自分で治すことができると思っている人は医者を訪ねないように、自分で正しくなれると思っている人はキリストを信じないということです。こんな人は高慢という、もう一つの罪を犯しながら生きている人々です。 アウグスチヌスは、「正しくなろうとしたそれさえも罪だ」と告白しました。すなわち、私が正しくなろうと思うことが、既に大きな罪におぼれるということです。私がもっと正しく生きようとしたことは、とりもなおさず、深い罪におぼれていたのであって、「私が自分で正しくなろうとすることまでもが無効だということを悟った」と告白しています。事実です。私たちの経験から見ても、少し良くなれば、すぐ高慢になります。醜いほど自分をよく見せようとします。他人より少し知識があり、良い行いがあるようなら、もう肩に力が入ります。私は何時間伝道したとか、何人の研究生を持っているとか、『ものみの塔』誌を何冊配布したとか、色々言うようになります。教会は伝道していない、聖書に従っていない、一致していない、世的であるなどと言いたくなるのです。これは、キリスト者であっても、同じような過ちを犯すことがあるのです。そして、段々と他人を見下げるようになるのです。残念ですが、人は罪を犯して泣いている間が一番真実なのです。ここからスタートすべきです。キリスト者の信仰はエホバの証人のように、私の行い、私の義をもて、私を神に見せようとすることではありません。
10神の正しさ
キリスト者の信仰は、まず第一に、神の正しさを告白することです。あなたが証人として歩んできた、過ぎ去りし日々の中で、神に対するこんな恨み、あんな恨みなど、解けない問題があったとしても、結局、今ここまで来て考えてみると、すべて神が正しかったのです。私が自ら罪の道を歩んでいました。私が悪かったのです。自分の過去を正当化しようと、また、弁明しようと、私がいらない意地を張ったり、いらない精力を使い過ぎました。今はそのことを素直に認めるのです。また、私が現在、教会生活に満足が得られないとしても、あるいは病に落ちても、健康であっても、死んでも生きても、神は正しいお方であると信じることです。神のなさることのすべてが正しいと言って、続けて認めていくことが信仰の道であり、悔い改めというのは、神の正しさの前に私が罪人であることをはっきり認めることです。
|