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11.罪の告白
イエス様が十字架につけられている時、隣の一人の強盗は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ二三・三九)と主を罵りました。でも、もう一人の強盗は彼をたしなめ、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(四〇〜四一節)と言いました。どれほど貴重な心でしょうか。私が受けているこの十字架の死が、私にとって当然だという告白です。
私たちは神の前で時々、恨みを言いますが、これは他でもなく私の正しさを主張させるからなのです。私の罪に対しては、絶対に言い訳をしてはいけません。知らなかったとか、一生懸命だったのだからとか、勝手に自分の基準を設けてはいけません。また、私の罪を社会や環境のせいにしてはいけません。両親や周囲の人々のせいでもありません。ただ私の罪があるだけです。これを肯定すべきです。これを認めて主の前に告白すべきです。
12.神の義が十字架に
第二に、キリスト者の信仰は、神の義を受け取ることです。人の義は当てになりません。ローマ書一章一七節には、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」とあります。宗教改革者マルチン・ルターは、このみことばを解説する時、神の義の怒りが十字架上に一遍にドカン!と落ちてしまったと語りました。全人類に向かう神の義が啓示された時、イエスは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶようになったと語っています。神の義がキリストの十字架上に現れた!その事実を信じ受け取ることが信仰なのです。私の下るべき神の怒りは、キリストの十字架上に落ちたのです。
それ故、キリスト者は十字架のみを仰ぎ見れば感謝し、感謝が溢れるのです。十字架を通
して、神が今ここで具体的に私を愛しておられることを知るのです。神の愛の証しとして、十字架以上のものはないのです。このすさまじい神の愛を悟る時、私たちの内側には驚くべき変化が起きます。自分では考えることもできなかった力がわいてきます。そして、私の身の回りの小さな問題は解決される、つまり、問題とはならなくなるのです。
13.真の信仰とは
第三に、キリスト者の信仰は、神との正しい関係です。ルターの語った信仰の定義がこれでした。彼の定義の中では特に「具体的な生活の中における神との正しい関係だ」と言っています。教会で礼拝を捧げる私たちの姿勢や、また祈る姿勢のみを意味するのではなく、また、伝道しているかどうかという問題を取り上げているのでもなく、現実生活の中で具体的に神との正しい関係を結んで生きる姿勢を信仰だと言っています。正しい関係は義の関係であり、平和の関係です。帰って来た放蕩息子迎え入れる父と子の関係です。父は帰って来た息子を、放蕩者として迎え入れたのではなく、完全な息子として迎え入れました。全く過去を問いませんでした。また、「今、お前は何をしているのか」ということも問いませんでした。(祈っているのか?聖書を熱心に勉強しているか?伝道しているか?これからは私に従順すると約束するのか?・・・問うていません。)ただ帰って来たので、「私の息子が帰って来た。料理をしなさい。指輪をはめさせなさい。服を着させなさい」と言って迎え入れたのです。ここには少しも放蕩という意味がありません。完全な父との関係です。これが神とあなたの関係です。あなたには神の子の身分が与えられたのです。あなたはどうしますか。「私は父に逆らって大きな過ちを犯してきました。もう子供と呼ばれる資格はないので牛小屋で暮らします」と言うこともできるでしょう。しかし、父はそれを望んでおられないのです。いや、そんなことは絶対に容認できないのです。父の心が引き裂かれることなのです。
14.真の義人とは
父は罪人であるあなたを十字架の上で赦し、あなたを義人として迎え入れたのです。今も、義人として会ってくださるのです。あなたが義人であるということを、あなた自身が事実として信じなければいけません。信じますか。では、どのような義人なのか、あなたはもう、ご存じですか。ルターはこの問題に対して本当に苦しみました。恐らく、二千年の歴史の中で、この問題に対して、一番深い関心を持った人がルターです。ルターの神学のあだ名が、「十字架の神学」でした。このくらい集中しました。ここで彼は苦しみました。今日、私たちが義とされたのが事実であるとするならば、義とされた後に犯す罪はどうなるのかが問題でした。義とされた後も、私たちは相変わらず、罪人であるからです。そこで、悩んだルターは、次のように結論を得たのです。「義人でありながら、同時に罪人であり、罪人でありながら、同時に義人である」と語りました。続きの義人であり、続きの罪人です。これがキリスト者の正しい自己認識です。すなわち、私が私を見れば相変わらず罪人です。でも、私が十字架を仰ぎ見る時には、続けて義人なのです。神が私のために施してくださった愛を知るならば、今、私が神の子であることに疑いの余地はありません。それを知る人が既にキリスト者です。キリスト者はただ、神の義を受け取って、その義によって自分自身を見、また、隣人を見るのです。
15.キリストと結ばれて生きる
さて、私たちの内にエホバの証人の信仰に代わる本物の進行の規準ができれば、あとは、どのように成長してゆくのかという問題です。イエス様は「わたしはぶどうの木で、あながたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ一五・五)。基本的に、キリスト者は皆、成長するのです。自分の力によってではなく、キリストの恵みによってです。問題は、キリスト者として新生したのか(キリストの命に結合されたのか)どうかが重要なのであって、新生したキリスト者は皆、成長するのです。なぜですか。それが主の御旨であり、それこそ主のなさるみわざであるからです。主は永遠の昔から、既に目的をもってあなたを選び、救ってくださいました(エペソ一・四〜五)。あなたは神の作品であり(エペソ二・一〇)、多くの実を結ぶようにと主によって選ばれた者なのです(ヨハネ一五・一六)。人間的に考えれば、まず私が神を信じ、神が私の信仰を認めて、それで救いに預かったように見えますが、聖書の教えはそうではないのです。以前にも述べましたが、私が神のもとに行く前に、神が私のもとに来てくださいました。私が神を捜し求める前に、神が私を読んでくださいました。私の意志がある前に、神の御旨が先にあり、私の行いがある以前に、神のみわざがまず、主導的に行われていました。いつも恵みが先なのです。
ですから信仰の中に生きる人は、神のために私がどうであるべきか?神のために私が何をすべきか?と言って苦しむのではなく、神が私を通
してどんなことをなさるのか?神は今、私の中でどんなみわざを行っておられるのか?を考えるべきです。このように考えれば、愚かな私を今日も神が使っていらっしゃるのだと感謝するようになります。神中心にすべてを見、神中心の信仰で成長する私になるのです。
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