16.変わらない神の愛
 私が少し良い善いをしたから神が私を愛し、また罪を犯したからといって懲らしめられるという顔色をうかがうような信者になってはいけません。ちょうと失敗したからといって逃げようとしたり、ちょっと善いことを行ったと言って自慢しようとしてはいけないのです。あなたの行いによって神の愛が変わるのではないことをまず知るべきです。こうであっても、ああであっても、神はあなたを愛されます。  あるお母さんが、一人で苦労しながら四人の子供を育てていました。ある日の夜、旅人がその家で宿を借りることになりました。その旅人は会話を交わす中で、子供に対する愛の順番をこっそりと、その母親に聞いてみました。  「四人の子供たちのうち、誰を一番、愛していますか。」  母親は言いました。  「はい、勿論、長男でしょう。長男は私の最初の子ですので、一番愛を注ぐようになります」と答えました。ところが少し後に、別 のことを言い始めました。 「いいえ、違います。末っ子を一番愛しています。末っ子はお父さんの顔も知らず、可哀想な子です。それで、末っ子は叱り付けることもできず、ただ大事にするだけです。」答えは終わったかと思うと、  「お客さん、やっぱり違います。私は二番目の子を愛します。その子は一人しかいない娘です。どれ程愛らしいか分かりません。」そう言った後で再び、「違います。実は三番目の子を一番愛しています。これが本当です。なぜなら、この子は小児麻痺にかかりました。それでいつも転んだりして弱いのです。この子を一番愛しています」と言ったそうです。  実は、これが親の心です。弱い子をより愛するようになるのです。親の愛は、勉強がよくできるから愛するのではありません。弱い子、可哀想な子、出来の悪い子をもっと愛するようになるのです。我が子を愛するのにどんな理由や条件が必要でしょうか。家出をしたからといって、その子を忘れることができますか。出来が悪いからといって戸籍から外してしまう親がいるでしょうか。愛はそんなたぐいのものではありません。

17.人間愛にまさる神の愛
 神は私たちを初めから愛する者として選び、愛する者として育ててくださり、導いてくださるのです。
 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ四九・一五〜一六)。
 「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』とあなたをあわれむ主は仰せられる」(イザヤ五四・一〇)。
 「『怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ 愛をもって、あなたをあわれむ』とあなたを贖う主は仰せられる」(イザヤ五四・八)。

18.絶えることのない神の愛
 神の偉大な点がここにあります。神の愛は決して途中で放棄しないのです。いや、放棄できないのです。なぜでしょうか。あなたは考えてみたことがありますか。どうしてですか。第一に、御子イエスが私のために身代わりとなって死なれたのです。神が代わりに死なれるという莫大な投資をしたので、絶対に譲れないのです。絶対に引き下がれないのです。あなたを諦めることはできないということです。ローマ書一一章二九節には、「神の賜物と召命とは変わることがありません」とありますが、これは、神の御旨は悔いることなく変わりがないということです。つまり、神は一旦、愛すると決めれば、あくまで愛するのであって、途中でやめないのです。  ルターの有名な言葉の中に、「神の愛は相手を探し回らず、相手を創造する」という言葉があります。神は愛すべき人を探しているのではなく、愛によって愛すべき者へと造り変えていくのです。

19.神の救いの力
 子供を持つ親にとっては、理解しやすい言葉だと思います。子供が親の言うことを聞かずに逆らっても、その子を言い聞かせ、叩いてでも愛し、育てていきます。愛する資格があるからではなく、初めから愛する者として育ててゆくのです。  同じように、神の愛の御旨は悔いることがなく、最後まで愛するということです。このことは、パウロ自身も経験によって確信していました。彼は神に敵対していた時に救われたし、またその後も多くの失敗をしましたが、神は彼を助けてくださいました。始まりがそうであって過程もまたそうだったので、今から後も、自分がどんな失敗をするとしても、「神は私を守ってくださる」という確信がありました。今は不従順になっているイスラエル人に対しても、あわれみによって救われるということを徹底的に信じています(ローマ一一・三一)。神は、あわれみによって、不従順になっている者を従順する者へと造り変えてくださるのです。従順するから救うのではなく、従順する者に造り変えていかれるのです。謙遜であるから救うのではなく、謙遜にさせて救うのです。ですから、私たちは主の御前に自慢できるものが何もありません。こんな罪人が救われたので、すべてが恵みであり、祝福です。ローマ書一一章三二節には、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」とありますが、このみことばは、とても神秘的であり、少し理解しにくいみことばだと言えます。しかし、経験した人は、理解できるのです。私が不従順であったので、神のあわれみを受けました。私が不従順な者であったので、ただ恵みによって救われたことを知りました。感謝する以外、何もありません。罪が大きければ大きいほど、神のあわれみも大きく、恵みも大きくなります。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」というみことばが既に、そのことを語っています(ローマ五・二〇)。それほどキリストの十字架は、私たちを救うのに十分以上に救う力があるのです。神が私たちを救うために、それほどまでに大きな、莫大な投資がつぎ込まれたということです。ですから、あなたの愛を途中で放棄することは考えられないのです。

20.救いの計画の確かさ
 第二に、神の計画は、人間の罪や行為によって妨害されないのです。結果 的にはいつも神の正しさ、神の御旨を実現させてくださるということです。戦争は苦しいことですが、その恐ろしい戦争を通 してでさえ、神の深い御旨を成り立たせておられるのです。病もまた苦しいことですが、その苦しみを通 して私たちに大きな恵みを与えることもできるのです。裏切られることも本当に心底苦しくなることですが、これを通 して神は思いもしなかった道へと導いてくださることも、私たちはよく知っています。時には失敗も必要であり、苦しいことも必要であり、上になったり、下になったりすることも、すべてが必要なのです。私が孤独になったことには、神の特別 な計画がありました。私が事業に失敗した時にも、神の深い御旨があったのです。結果 的には、これらすべてのことが、私にキリストの姿を受け取らせようとする主の御旨なのです(ローマ八・二九〜三〇、ピリピ一・二九他)。  アウグスチヌスは、「神は私一人だけを愛するのごとく、すべての人を愛する」と言いました。ひょっとしたら、私一人のために戦争があるのかも知れません。私一人のために驚く程の事件が必要だったのかも知れません。それほど神は、私たち一人一人を大切にして、みわざを行なっておられるのです。

21.苦しみから生まれる宝物
 すべてのことが、私一人を愛して成り立たせる主のみわざであると信じれば、患難にも打ち勝つことができます。また、私の弱点、私の欠点が、私を飛躍させることにもなるのです。もしミルトンが失明しなければ、それほど良い作品を書けなかったかも知れません。ベートーベンは耳が不自由でした。これは、音楽家としては致命的な悪条件でした。しかし、耳が不自由になった後に、名作を残しました。有名なチャイコフスキーは、口で言えないほど不幸を背負い、自殺未遂まで体験した人でした。しかし彼は、あの有名な「悲愴」を残してくれました。  これらすべてが断腸の苦しみを通して与えられたものです。平安な環境では名作ができにくいのです。信仰の世界もよく似ています。エホバの証人に入信していなかったなら、今よりもっと幸せになっていたと考えますか。あなたは証人に入信していなければ、一生涯キリストに出会うことがなかったのかも知れません。また、今の苦しみがなければ、もっと幸せになれると考えますか。今の苦しみがなければ、神の名作が生まれないのかも知れません。あなたは主の御旨の中に生かされているのです。あなたがどんな立場に置かれていても、あなたは主に愛されています。主があなたを成長させ、あなたを用いてくださるのです。そして今も、用いてくださっているのです。

 
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